Pylaske今昔
興味の無い人には全く興味の無い内容ですが、
取り敢えず書かせてください。
Profileみたいな感じで読んで頂ければこれ幸い。

―序章―

Pylaskeが釣りを始めたのは中学の頃。
今から10年程遡る事になります。
当時、友人二人と常に一緒に遊んでいました。
呼び方をやまちゃん♂、さえちゃ♂とでもしておきましょう。
彼らと出会って間もない頃、釣りに行くと言うので、
つるんでいた僕は普通について行きました。
一人っ子のうえに家族には誰も釣りをする人が居なかったので、
見る物聞く物全てが新鮮でした。
信濃川の源流、千曲川と犀川の合流地点の近く、
落合橋の橋桁の下
で鯉を釣るとの事。
釣り上がった魚を見て胸の奥底で何かに火がついたのはこの時でした。

―鯉に始まり・・・―

次の釣行前に親にねだって近くのホームセンターで、
RYOBIの投げ竿セット約2000円を買ってもらいました。
親もファミコンよりは健康的と大喜び。
これで親父もファミコンを独占できます。
最初の数回は全く釣果がありません。
キャスティングの練習として、全員分投げさせてもらいました。
やっと釣れた時のあの感動ったら、忘れたくても忘れられません。
どんなだったかって?えーと・・・凄かった!(忘れた)
ベタなボケは置いといて、この頃から釣り馬鹿振りは発揮されてたと思います。
さえちゃ♂から名誌「釣り馬鹿日誌」を借りて読み漁り、
台風が来ると聞けば「台風前は大物が釣れる!」と受け売りで二人を誘ったり、
室内釣堀に行くと言われたら必要無いのにマイロッドを持ってったり。
とことん釣りにのめり込んで行きました。
昔、叔父が使っていた渓流竿を貰った時には感動を覚えたほどです。
千曲川でハヤ釣り、渓流で岩魚釣り等、めちゃめちゃ使いました。

―海釣り―

初めて海釣りに行ったことは良く覚えています。
さえちゃ♂から借りた釣り入門で「海の投げ釣りでキス」という項を読み、
「キスの天麩羅。じゅるり( ゚Q゚)」という邪な理由で父親に連れてけとおねだり。
行った先は新潟直江津港
しぶしぶ連れてきた父親が拾ったサビキ仕掛けで手釣りしたら、
なんと小鯵が2、3匹釣れてしまった。
これで味を占めた親父は財力に物を言わせて釣具を買い漁っていきました。
彼にも釣り馬鹿の血は流れていたようです。
これでおねだりする事無く毎週連れて行ってもらえるように。
鯵やら河豚やらボラやらカレイやら、色々釣ることが出来ました。
残念なのは未だにキスの天麩羅にはありつけて無いという事。。。

―受験期を迎えて、ルアーとの出会い―

中学1年2年と釣り三昧で過ごしてきたわけですが、
3年の受験期に差し掛かると今まで通りには釣りに行けなくなってしまいます。
それでも月1、2回の釣行を楽しみにしてました。

ある日、やまちゃん♂とさえちゃ♂が見せてくれたモノ。
まるで魚のオモチャの様な物に針がついてる。
そう、ルアーです。
ピーナッツUをお揃いで買っていたのです。
これは俺も買わにゃなるめぇと急いで入手。
なけなしの小遣い叩いて買ったピーナッツU!勿体無くて使えません。
当時、月の小遣い1000円の僕にしてみれば大変高価な品です。
今でも実家のタックルボックスに眠ってます(笑
それでは釣りは出来ないと、ワゴンセールからも幾つかピックアップ。
一番安いスプーンとスピナーです。
今思えば本当にバス狙いか?と思うような選択ですが、
ルアーフィッシングのイロハも知らないんですから仕方がありません。
ルアーを買うだけでお財布が火の車だった僕には
高価なバスロッドやリールなんて買う余裕なんてありません。
安物投げ竿セットにスピナーを結ぶというなんとも奇妙な光景がそこには在りました。
嫌な意味でかなり目立っていたようです。

親父はというと、息子に受験勉強を押し付け、
一人で渓流やら夜釣りやらと釣り馬鹿振りに磨きをかけていきました
釣ってきた尺岩魚を見て唇を噛んで悔しがってる息子に
「どうだ、パパ凄いだろー」とでも言いたげな笑顔を向けた時は腹が立ったもんです。

―高校に入り―

高校に入ったら勉強やら人付き合いやらでめったに釣りに行けなくなりました。
それでも胸の奥底では釣り師の炎が燻っていたようです。
学校帰りに上州屋に寄ってはワゴンセール品を買いあさってました。
ところでグリーンマークというのは全国ネットですか?
多分、地方ネットワークだと思うんですが、スーパーなどで買い物をしたら貰えるポイントの事。
誕生日かなんかか、親からある程度ポイントを貰い、DAIWAのルアーロッドと交換してもらいました。
CarbonSpin-miniだかTelescopicだか書いてあります。コンパクトロッド、振り出し竿です。
ルアーロッドで振り出しって!しかもリールはまだカリカリいうヤツ!
でも嬉しかったんですよ。これで俺もバサーの仲間入りだ!って。
一匹も釣ったこと無いんですけどね。
中学の頃行ってた池は雷魚とヘラしか居なかったから。
後になって知った時はちょっとショックでした。

因みにPylaskeという名は高校時代つけられました。
先輩に「昔、じいちゃんからヒロスケデテッポってよく呼ばれてたんですよ。」
と話したら、それ以降ヒロスケと呼ばれるようになってしまいました。
ヒロスケデテッポの由来が気になるところですが、
僕自身知らないので割愛します。
そのうち"ヒロスケ"が可愛く"ピロスケ"になり、
「どうせだから本名と全く違う名前にしてしまえ」とピラスケになりました。
改めて聞くと安易なあだ名だ。しかもファミコンのドラクエに使えない。5文字になってしまう
そしてホームページを立ち上げる際ローマ字じゃかっこ悪い気がしたので
ちょっと捻ってPylaskeになったわけです。謎は解けましたか?(何の?)

―そして今に至る―

高校卒業から東京のある学校へ入り一年間。
その間は全く釣りから遠ざかっていました。
そしてアメリカに留学する時、思ったんです。
「そういえば自分は釣り馬鹿。アメリカはバスフィッシングの発祥の地!」 トランクの中にそっとリールとコンパクトロッドを忍ばせました。
これから勉強という時に何を考えているのかという声もありますが、
麻雀牌を忍ばせてきた友人よりはマシだと自分は信じてます。
五十歩百歩ですか?

アメリカに着いて先ず買ったのはOutdoorの雑誌でした。ここまではやる気満々
しかし、本拠地の町に着いて唖然としました。
すっごい田舎。
市内バスはホントに町の中しか走らないし、電車に乗れば遥か彼方に旅立ってしまう。
近くの川は夏の間は枯れてるし、本流までは車で20分以上かかる。
池も湖も遠くの存在です。
挫折しました。
車を持ってない自分にとってアメリカでの釣りは過酷なものでした。
それから竿とリールはクローゼットの中に封印されることとなりました。
引越しの度に今年こそはと思いながら月日は過ぎて行き。。。
4年後の2003年夏。突如、その封印は解かれる事と相成りました。

ものすっごく長くなりましたね(汗
だらだらと思い浮かんだことを書いていたらこんな量に・・・。
纏めるのも書き直すのも面倒臭いのでもうずっとこのままw


TOPへ 戻る